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「水の精」と人間との恋を描いたオペラといえば、個人的にはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」が一番身近な作品です。泉のほとりで人間の男に拾われ、強引にその妻にされたメリザンドが、その男の弟と恋に落ち、悲劇的な結末を迎える。美しくて男性を惹きつけ、狂わせるけれど、メリザンドはどこか「この世のものではない」雰囲気を漂わせています。愛の言葉を口にしていても、どこかつかみどころがない、あさっての方を向いている。それが「水の精」たるゆえんなのでしょう。

ドヴォルザークの「ルサルカ」も、水の精と人間との恋を扱った作品です。とはいえ趣向は「ペレアス」とはかなり異なります。愛しているのかいないのかつかみどころのないメリザンドと違い(彼女が水の精であることも、暗示的にしか示されないのですが)、水の精ルサルカは、自分から人間の王子に激しく恋し、恋を成就するために人間に変えてくれと望む。恋人の心を掴みきれず、裏切られても、なお相手を思い、その幸せを願います。そう、アンデルセンのあの「人魚姫」のように。

同時にルサルカは、姿は人間に変わっても、「水」の本質が残っている我が身を悲しみます。人間には持てる情熱が自分には持てない。彼女が恋する王子は、彼女は美しいが「冷たい」というのです。ほんとうは、ルサルカの持つ「水」のなかには、人間以上に熱い情熱が脈打っているのですが。

「ルサルカ」は、以前新国立劇場で生の舞台を見たことがあります。これはかなりわかりやすいものでしたが、家にあるのは、カーセンが演出したパリ・オペラ座の映像。舞台の中央に置かれた大きなベッドを中心に物語が回る、シンプルで幻想的なプロダクションです。これはこれで美しいのですが、今回、メトのライブビューイングで「ルサルカ」を見て、ようやく作品の姿がわかったような気がしました。

わかりやすかった最大の要因は、オットー・シェンクの演出。90年代に制作されたプロダクションですが、物語を忠実に再現しようとした、オーソドックスな舞台です。けれど、ふだんあまり接することがない作品は、やはりはじめはこういう演出で見て、物語をきちんと把握したほうがいいと痛感しました。ベッド一台で宮殿の場面も森の湖のほとりの場面も、というのは、やはりある意味わかりにくい。今回の「ルサルカ」では、自然界である森のなかで進行する第1、3幕と、人間世界である宮殿を舞台にした第2幕が忠実に再現されていました。抽象的な演出だと、この場面はどこに当たるのだろうかと想像をめぐらせることにかなり労力がとられてしまうのですが、このような演出で見ると、よけいなことを考えなくていいので、物語や人物像、作品のテーマなどをきちんととらえることができます。そんなわけで、繰り返しですが、今回ようやく、「ルサルカ」という作品の全貌がちょっと見えた気がしたのでした。

いちばん腑に落ちたのは、作曲したドヴォルザークの「自然への愛」です。

田舎生まれのドヴォルザークが自然を愛したことは、よく知られています。彼にかぎらず、中欧や東欧の作曲家のオペラには、「自然」、とくに「森」がいきいきと描かれたものが少なくありません。有名なところではウェーバーの「魔弾の射手」もその範疇に入るでしょうし、個人的に好きなのはヤナーチェクの「利口な女狐の物語」です。この作品で、森番が森のなかに分け入る場面の自然描写はほんとうにファンタスティックで、こちらも森のなかに迷い込んだ気分になれます。

今回の「ルサルカ」では、有名な「月に寄せる歌」の場面をはじめ、ドヴォルザークの自然への愛、水や森や動物を描く自在な筆致を感じることができました。とくに圧巻だったのは、を第1幕で魔女のイエジババが薬を調合する場面で出てくる動物たちの描写。ヤナーチェクに劣らない、ファンタジックでいきいきした音楽を、演出の助けを借りて存分に味わいました。

同時に、本作のなかで扱われている自然と人間の関係についても、思いをめぐらせることができました。ルサルカと王子の悲恋に象徴されるように、両者は惹かれ合うけれど、融合することはできない。接点をさぐるけれど、対立せざるを得ない。その悲しみ。

もうひとつ、この作品の重要なテーマだと感じたのが、水の精とルサルカの、「父と娘」の関係です。これは恋人同士以上に、深い「愛」にあふれているのだと痛感しました。「父と娘」を扱ったオペラといえばヴェルディの諸作が有名ですが、ご存知のようにワーグナーの「ワルキューレ」でも重要なテーマですし、ロッシーニの「タンクレーディ」やベッリーニの「ノルマ」など、19世紀のオペラのかなり多くの作品で扱われています。そのことも改めて、思い起こされました。

ひとつだけ、これはカーセンの方がいいなと思ったのは、最終幕の幕切れ。カーセン演出では、ルサルカは王子と口づけしながら自分も一緒に水の中に沈みます。この作品は「アイーダ」や「トリスタン」のように心中ものだと思っているので、シェンク演出はちょっと寂しい。ご興味のある方は劇場でご確認下さい。

「ルサルカ」、音楽自体も変化に富んでいて、飽きさせません。「ラインの黄金」の冒頭を思わせる、3人の水の精による冒頭のシーンをはじめ、ワーグナーの影響はよく言われるところですが、前にあげた自然描写や、第2幕の舞曲など、ドヴォルザークでなければ書けない音楽もふんだんです。各幕の幕切れの盛り上げ方も上手い。王子が外国の王女に、ルサルカ父娘が王子に振り回される第2幕ラストはとりわけ劇的です。大胆に見えて実はとてもていねいなネセ=セガンの指揮は、音楽面での立役者でした。

歌手も適材適所。タイトルロールのルネ・フレミングは、幕間のインタビューによると、なんとメトのオーディションでも「月に寄せる歌」を歌ったといい、デビュー時点からおよそ四半世紀持ち役にしているそうです。 手元にあるカーセン演出のパリ、オペラ座の映像でも、ルサルカ役はフレミング。オペラ座でもこのときが初演だったようですが、この役を得意にするフレミングがいたからかなった上演だったのでしょう。

独特の、やや金属的な光沢をたたえた彼女の声は「銀色の声」とも評されます。フレージングも独特で、ちょっと癖があるといえばいえ、それだけにイタリアものではちょっと厳しい時もあるなと正直思うのですが、幻想的な、とめどない雰囲気をたたえたルサルカという役柄には、あっていると感じました。曖昧なフレージングが、つかみどころのないルサルカ役では利点にもなりうる。そして声自体の質感は、この役にぴったりです。技術的にも危なげなく、高音もきれいに漂わせ、さすが十八番の役だけあるとうなずけるできばえでした。無言の演技を強いられる第2幕前半では、意志が伝えられない悲しみ、「水」の本質を変えられない悲しみを、体がはりさけんばかりに表現していました。

相手役のピョートル・ベチャワ。知的で上手い歌手ですが、ポーランド出身ということもあるのか、イタリアものではくもりがちだと感じることがあるのですが、この役はうまくこなしていました。ディクションはより明確で、きりりと端正な響きが王子役に似合っている印象でした。

美声と迫力で、脇役以上の存在感を発揮していたのが、魔法使いイエジババ役のベテラン、ドローラ・ザジックと、水の精役のジョン・レリエ。ザジックは出てきただけで舞台を巻き込む存在感がまず主役級ですし(役柄もあるでしょうか?)、声も素晴らしい。ある意味フレミングとは対照的で、イタリア的な感覚に近い、明瞭な発声とくっきりとした美声です。むらがなく、はっきり立ち上がって美しい。どの音も充実しています。

レリエはまだ若いバスですが、このひともほんとうに美声です。張りがあり、整っていて、深みがあり、よく通り、やはりくっきりと明瞭で快い。ずっと聴いていたいくらいです。第2幕で、愛する娘ルサルカの悲しい運命を嘆くアリアには、つくづく心を打たれました。何もかもわかっていて、娘の恋の悲しい結末も見通していて、それでも彼女の思う通りにさせてやり、それを見守る。ある意味ほんものの「愛」かもしれません。

いろんな発見があった「ルサルカ」。なじみのないオペラだけに、手の届く値段で気楽に見られるのは嬉しい。金曜日まで上映しています。

http://www.shochiku.co.jp/met/program/1314/index.html#program_05